2008年01月19日「ハマクラの音楽いろいろ」 浜口庫之助著 朝日新聞社 1200円

カテゴリー中島孝志の通勤快読 年3000冊の毒書王」

 古本屋さんのいいところ。古い本を売ってること。
 当たり前じゃん!?

 でも、その当たり前がなかなかできない。古い本=絶版=読みたくても読めない本ね。

 見ぃつけちゃった。ハマクラの本。ハマクラやで、ハマクラ。
 ハマクラ、好きでんねん。ハマクラ。キャバクラとちゃうで。

 あんた、ハマクラ知らんか? そりゃ不幸やわ。ええ機会や、このわしが教えたるからよぉ覚えとき(注:友近ふうに話してます)。

 浜口庫之助さんといいますと、いい曲遺してますな。
 たとえばね、「バラが咲いた」「えんびつが一本」「恋の街札幌」「粋な別れ(裕次郎)」「もう恋なのか(にしきのあきら)」「みんな夢の中(高田恭子)」「夕陽が泣いている(スパイダース)」「花と小父さん(伊東清子、タモリ競作)」・・・たくさんあります。

まず、メロデイラインがとってもきれい。それと詩がきれい。ロマンチストであることがよくわかりますね。

 無頼派の作家に梶山季之さんがいますね。で、彼がハマクラさんに訊いたのよ。
 「歌をうたうことはできるけど、そのメロディを作曲家はどこから持ってくるのか不思議でならない」
 すると、こんな答え方。
 「たとえば、『おかあさん』という言葉の裏には、『トトーントン』という音があります。『おかあさん』という言葉の中に音程の出っ張りやへっこみがあるんです。音楽家はそれに合わせて曲を作ります。それがピタッと合うといい歌になるんです」
 なるほど。

 で、どうして音楽家になったのか?

 ハマクラさんは音楽家です。ミュージシャンですよ。戦前から学生ジャズで鳴らしてたんだから。当時、ものすごい人気の灰田勝彦さんより有名があったの。
戦後、日本に戻ってきてからはスイングやラテンのバンドもやってた。紅白歌合戦にも歌手として3回出場してんだかんね。
 とんでもない売れっ子だったのよ。

 でもね、「曲を作ろう」と決意すんだよ。で、売れなくなるの。カネが入らなくなるの。貧乏のどん底に落ちるの。

 貧乏が怖い! 貧乏だけはやだ!! こう考えるのは、貧乏を経験したことがある人だけですね。貧乏したことない人は実感がありません。
 「貧乏ってなに?」「どんなの?」ってイメージできないわけ。結果として、貧乏に突入する勇気があんのよ。勇気というか、まっ、無知といったほうが正確だと思うけどね。いずれにしても、怖がらない。

 たぶん、ハマクラさんもそうだったと思う。本には書いてないけどね。

 この人、ものすごいボンボン育ちなのよ。
 父親は神戸の貿易商。台湾総督府の真ん前に4階建てのビルを建てた。東京では丸ビルに事務所があった。
 ロンドンの日英博覧会では台湾館設営のために現地にいってるんだけど、カイゼル髭にシルクハットで馬車に乗ってる写真が残ってる。
 これ、明治の政財界人の典型的なスタイルね。伊藤博文がそうだったでしょ。

 神戸の自宅は洋館。裏庭にはコスモス。その向こうにはテニスコート。応接間にはグランドピアノ。
 クリスチャンの父親と、日曜礼拝の帰りにはいつもユーハイム、フロインドリーブ、エスキモーとかでお茶してた・・・というハイカラさん。

こういう育ち方をすると、自然と音楽に親しみますね。「生まれたときから僕のまわりには音楽があった」って言ってるもの。

 小学2年のときに東京に引っ越します。
 いまあんのかなぁ。青山に青南小学校という名門小学校がありました。4年から富士見小学校、府立4中(戸山高校)。で、早稲田高等学院。
 小学校から家庭教師がついてたから英語は得意。数学も得意。けど国語がダメ。で、スピンアウトしちゃう。

 学生をやめたハマクラさん。伊勢丹前に帝都ダンスホールってのがあった。そこにバンドボーイとして雇われるわけ。
 これがシゴトとしての音楽との初の出会い。

 まだアメリカと戦争する前の話ですよ。

 たぶん、オヤジからやいのやいの言われて、サラリーマンになるんだよ。神戸製鋼所に入社しちゃうの。神戸製鋼所の工場もオヤジさんが作ってるからコネがあったと思う。
 でも、やっぱ学歴がないとね。サラリーマン社会はね。学歴というか専門知識なんだろうけど、ホントは。

 で、もう1度、学生やるわけ。青山学院に入ります。
 学生は暇だかんね。バイトしちゃう。またまた音楽にどっぶり浸かるわけ。
 楽器店でギターを教え、レコーディングしたりしてたら、当時の三井物産課長の2〜3倍のおカネを稼いでた。こりゃ羽振りがよくなりますわな。

 ただでさえ4年遅れで学生になったから、一目置かれた。で、いろんな大学に声かけて学生バンド大会を企画しちゃう。イベントだよ、イベント。
 日比谷公会堂の超満員。こりゃ、灰田勝彦さんより人気があるはずですよ。

 時代はまだ昭和17年。太平洋戦争に突入してます。もう音楽はやってられない。解散します。
 「これからは実業で身を立てよう」と考える。本来、そういうラインなんだもんね。

 で、ジャワに赴任。コーヒー、紅茶、ゴム、キニーネ、キナ、タンニンなどの農園経営を任されるかたわら、5000人ものマレー人に日本語を教える役目を仰せつかっちゃう。
 いわゆる、日本政府としては民心把握ってやつですな。日本語を指導するには歌がいちばんでしょ? このキャスティングは当たりだった。

 敗戦で捕虜になり、昭和21年、ようやく日本に戻ってきます。日本に着いて思ったこと。
 
 音楽をやろう!

 バンドマンとしては売れた売れた。儲かった儲かった。外車を2台乗り回してた。
 ところが、ある日、新宿コマ劇場で西インド諸島の舞踊団を見に行ったときのこと。開演に先立ち、白髪の小さな老人が挨拶するわけ。
 それ、聞いて運命が変わります。

 「郷土の芸術を、日本の皆さんに披露できるのは光栄なことです」

 実はちょうど、ハマクラさんのところにアメリカ公演の話がきてたのね。けど、アメリカに行っても、なんと挨拶したらいい?
 「みなさんの真似をしに来ました」ってか?

 演奏もいいけど、日本の曲を作ることはもっと重要なことかも・・・ハマクラさん、40歳の時のことでした。

 「紅白で歌って」という依頼もすべて断って、曲作りに没頭。「いい曲だね」とは言ってくれるけど、そこまで。
 収入が途絶えた。しかたなく奥さんの実家に居候。でも、音楽がダメならサラリーマンになれと責められた。まっ、子どもを2人抱えてるわけだしね。

 で、妻子にはアパートを借り、自分は倉庫番の友人のところに転がり込んだ。外車も売った。

 昭和34年、「黄色いサクランボ」を書きます。詩も曲もハマクラさん。
 これがなんと25万枚を売る大ヒット。当時、レコードプレイヤーがそんなに世の中になかった時代ですよ。ほら、「三丁目の夕日」の頃だもの。

 「1曲だけじゃわからねぇよ」というヤツもいた。そこで書いたのが「僕はないちっち」。

 「ちっち」なんて変なの。どうも神戸育ちのハマクラさんの耳には、東京弁は「ちっち」と聞こえるらしいんだ。「笑っちゃった」「買っちゃった」という「ちゃった」が「ちっち」に聞こえるんでしょう。

 でもって、これを「錬鑑(練馬鑑別所)ブルース」が発売禁止で困ってた守屋浩(後のホリプロ取締役だ)に歌わせたら、これまた大ヒット。

でも、どうしてヒットしたの?

♪僕の恋人 東京へ行っちち 僕の気持ちを知りながら
 なんで なんで なんで
 どうして どうして どうして
 東京が そんなにいいんだろう

 僕は泣いちっち 横向いて泣いちっち
 淋しい夜は いやだよ
 僕も行こう あの娘の住んでる東京へ♪

 な〜んだ、結局、コイツも東京に出てきちゃうわけ?
 ちがうんです。2番の歌詞でガラリと変わるのよ。
 東京で夢破れ、故郷に舞い戻ってくる。でも、やっぱりあの娘の住んでる東京を想う・・・てな歌。

 このとき、ハマクラさん、とっても大切なことをつかみます。それはね、ヒット曲の法則だよ。

 日経ウエブに連載してる「社長の数式」ふうに言うと、「2元一1方程式」なの。縦軸に音楽、横軸に時代感覚・・・この相関関係をうまく読み解くこと。

 みなが集団就職で東京、大阪を目指す時代だったけどさ、田舎に残った人も多いんだよ。家族はみな残ってるんだもの。「三丁目の夕日」の堀北真希ちゃんもそうだったよね。

 みながみな都会で成功したわけじゃないし、幸福になったわけじゃない。
 夢破れて、失意の内に田舎に戻った子どもだって多かったと思うよ。方言をバカにされたり、ホームシックになった人なんて山ほどいたと思う。
 「金の卵」とおだてられてきたけど、出世と無縁の工場労働者だもの。仕事は辛かったと思う。夢から醒めたときはもっと辛かったかも。

 集団就職たって、まだ15〜6歳の子どもだもの。こりゃ、毎日、母親が恋しくて泣くと思う(なかには幸之助さんみたいに、未知の出来事ばかりでワクワクする、という人もいるだろうけど)。

 そんな思いを詩にする。五線譜にする。音楽という縦糸と時代感覚という横糸で上手に織り上げられたもの。それがヒット曲になる、というわけです。
 ビジネスパーソンのみなさん、これ、今回のポイントです。

 さてと、少しプレイバックします。「僕は泣いちっち」のほうが先にできてたんですけど、発売は「黄色いサクランボ」のほうが先。
 で、大ヒットしましたね。

ハマクラさんには、一高中退、東大中退という奇妙な友人がいたんですけど、この人、いつも予言者みたいなことを言うわけ。ところが、これが面白いように当たるのよ。
「浜口さん、あなた、夏から秋にかけて大ヒットを飛ばすよ」
当時、ハマクラさんはどん底です。なんたって、倉庫に居候してる身分だもの。けど、断言するんだよなぁ。
 「黄色がいいね。船とか大陸みたいな感じがいいな」
 勝手にそんなことを言うわけ。ハマクラさん、笑い飛ばすしかないよね。

 ところが、それからしばらくして、スリーキャッツという女性グループの曲を書くことになるわけ。このとき、ハマクラさん、たまたま思い出すんだな。
 船? 大陸? 間奏部分に「太湖船(中国の古曲)」に似たメロディを入れてみようか。
 赤いサクランボ? まっ、サクランボは赤いよな。けど、これじゃ普通だよな。「黄色がいいね」って言ってたな、あいつ。
 「黄色いサクランボ」にしちゃおうか。

 サクランボが黄色い? なに、それ? いったいどんなサクランボだ、そりゃ!
 いまふうに言えば、インパクトとサプライズってヤツ?

 最近、ハマクラさんの名曲100選が出ました。もち、即、買いましたよ。その中から2曲ピックアップしました。
 聞いておくんなはれ。260円高。

「涙くん、さよなら」(作詞曲・浜口庫之助)」(クリックすると聴けますよ)

♪涙くんさよなら
 さよなら涙くん
 また会う日まで

 君は僕の友達だ
 この世は悲しいことだらけ
 君なしではとても
 生きて行けそうもない

 だけど僕は恋をした
 素晴らしい恋なんだ
 だからしばらくは君と
 会わずに暮らせるだろう

 涙くんさよなら
 さよなら涙くん
 また会う日まで♪

「「夜霧よ今夜も有難う」(作詞曲・浜口庫之助)」(クリックすると聴けますよ)

♪しのび会う恋を つつむ夜霧よ
 知っているのか ふたりの仲を

 晴れて会える その日まで
 かくしておくれ 夜霧 夜霧

 僕等はいつも そっと言うのさ
 夜霧よ今夜もありがとう♪